WAKU JEWELRY Blog

和久譲治のジュエリーブログ

 

WAKUコレクション(2)

 

1700's シルバー&ペーストジュエリーコレクション(1)

 

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(1)1700年代 シルバー製ペーストジュエリー 4点

 

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(1)1700年代 シルバー製ペーストジュエリー(裏面)

 

1700年代のペースト(鉛ガラス)を使った、シューバックル(左上)と飾りボタンです。(後にブローチ加工されています)ルイ15世時代、ヴェルサィユ宮殿に集った貴族たちが、装っていたものと同じものです。製法は、基本的にコレクション(1)と同じですが、面白いヴァリエーションが見られますので、詳しく見ていきましょう。この変化の中に、ダイヤモンドのカットが進歩した時(石枠の裏張りがいらなくなった時、すなわちオープンセティングの始まり)現代的なパヴェセッチングに変化する兆しが見られます。(参照・長い文章です、マルボタンの写真を見つけてください)

 

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(2)左下・Giardinetto ボタン;和久ノート

 

和久ノート上段

17世紀末~18世紀、ヨーロッパ(特にイタリア、イギリス)で流行した「Giardinetto 」と呼ばれる様式のボタンです。多くは「花束」や「フラワーポット」のデザインリングが作られています。ただし、同じ様なデザインでも、作られた技法によって、年代の違いがあります。このボタンの製作技法は「和久コレクション(1)」(参照)

と同じであることは、和久ノートを見て頂ければ分ります。石枠表面のデザインを植物風に仕上げただけなのです。「Giardinetto 」とは、スペイン、ポルトガルで始まった製作技法のアレンジです。

 

和久ノート下段

「openwork」

一つ一つの石枠を作り、ロー付で組み合わせる方法から、写真(1)の上段と右下のように、石の密集したデザインでは、一枚の板から、デザイン全体を切り出す方法がとられるようになります。いわゆる「openwork」と呼ばれる、切り抜きの透かし細工です。そしてそこに一枚の板をロー付けしてcell(小部屋)を作っています。右下は厚めの底板をロー付けしたので、軽くするために、従来のように削り落としています。上段の二つは、最初から薄板を使っています。

 

「openwork・Giardinetto 」

宝石のcut技術が進歩すると、石の下をcell(小部屋)状態ににして、金属箔などを入れる必要もなくなります。18世紀の末期、イギリスなどで流行したのは、宝石の下が開いた「Giardinetto 」です。ですから裏面を見れば、作られた年代の一つの判断材料になります。

石留についての参考記事、記事中でこの作品写真をみつけてください。

私も「openwork・Giardinetto 」は好きなスタイルなので、「petite fiori 花シリーズ」でよく用いてきました。

 

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 「openwork・Giardinetto 」の小花を、槌目リングに合わせています。(小花の中はローズカットのダイヤモンドです)

「petite fiori 花シリーズ」・和久譲治

 

 

WAKUコレクション(1-2)

 

キリスト騎士修道会十字章

加工技術

歴史的見地から見た前述のように、「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルバァーリョ」が「ポルトガル王国総務大臣(1,750~1,777年)」に在った期間に製作されたと考えられるこの「キリスト騎士修道会十字章」の製作技法には、現代ジュエリーでは考えられないような技法が見られます。それらは、この期間のアンティークジュエリー贋作を見極める知識としても役立つはずです。

先ずは裏面んの全体像からご覧ください。

私は長い間、ポルトガル、スペインの石留は、大航海時代に、歴史的に関係の深いインドの「Gypsy setting(ジプシー セッティング)」に由来すると考えていました。しかし、この「キリスト騎士修道会十字章」の石留法を観察して考え続けた結果、イラン系騎馬民族スキタイの「Hammered  cloisonne setting」由来だと考えるようになりました。これから和久ノートを見ながら説明します。

 

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(1)キリスト騎士修道会十字章/裏面

 

写真(42)ガーネット象嵌(cloisonne  de grenats)と和久ノートを見比べてください。基本的な石留の考え方が、同じであることが分かります。Cell(小室)を作り、石の色を改善するための金属箔を敷いて、水などが入らないように、石にCellの金属を被せるように、叩き込むのです。スキタイの時代(紀元前9世紀〜紀元後4世紀)と「キリスト騎士修道会十字章」の頃の違いは、宝石のカット、研磨技術の違いです。より輝きを引き出すために、宝石はファセット(面)の集合体に研磨され、立体になりました。立体になった宝石を、Cellに安定させて埋め込む技術の進歩が見られているだけです。両者は同じ考え方で、宝石を留めています。研磨技術の違いが良く解る箇所があります。「キリスト騎士修道会十字章」のファセットに研磨されたガーネットは、複数の石が、ひとつのCellに埋め込まれています。他方スキタイのジュエリーは、一つのCellには、一つの石しか留めません。石と石の間に隙間が生まれ、密閉することが出来ないからです。また、スキタイのジュエリーは表面に金を張っていますが、それは装飾面だけでなく、叩いて伸ばしやすい金の属性のためであると思います。大きなギャップを密閉するためであったと考えられます。「キリスト騎士修道会十字章」のCellと宝石は、隙間なく細工されて、僅かに叩くだけで埋めこまれています。

1,700年代(ナポレオン登場以後は除く)のポルトガル、スパイン、フランス、ベルギー、イギリスなどのジュエリーが、写真(1)に見るように、船底のような形をしているのは、和久ノートで説明している「技法」のためです。宝石を埋め込み、中に密閉空間を作ったため、どうしても分厚い箱型になりました。その重量をできるだけ落とすための形状です。

 スキタイの「Hammered  cloisonne setting」がこの地方でみられることは、西ゴート王国(415年~718年)が南フランスからイベリア半島を支配した歴史に由来します。ゲルマン系のゴート族が黒海北から東ヨーロッパに居住していた時に、スキタイから伝播したと思われます。

石留についての参考記事、記事中でこの作品写真をみつけてください。

私は1,700年代のジュエリーに興味を持ち、コレクションしました。続いてご紹介します。

 

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(42)クリミヤジュエリー(Crimean jewellery),ガーネット象嵌(cloisonne  de grenats)の作りと 鳥型ブローチ(Fibule aviforme)、4世紀後半~5世紀;The Berthier-Delagarde Collection in British Museum:The British Museum(参照)

 

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\和久ノート

 

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(2

)

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WAKUコレクション(1)

 

 

キリスト騎士修道会十字章

 

 

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ガーネット、ロック・クリスタル(水晶)、silver


歴史

 

第1回十字軍で得た聖地エルサレムの防衛にため、1119年に「テンプル騎士団」(参照)が誕生します。1128年、教皇ホノリウス2世に認可され、国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外への服従の免除などの特権を与えられた「テンプル騎士団」は、自前の艦隊までをもった、ヨーロッパや地中海で商業活動、金融活動を伴う勢力に発展していきます。国王をも凌ぐ財力とネットワークを恐れたフランス国王フィリップ4世は、騎士団の壊滅と、資産の略奪を計画し、1307年、騎士団の会員を逮捕します。フィリップ4世の影響下にあった教皇クレメンス5世は、公会議で騎士団の禁止を国王たちに求めました。

その時、ポルトガル王ディニス1世は、レコンキスタやポルトガル王国復興に貢献したポルトガルの「テンプル騎士団」を保護して、「キリスト騎士団」として再構成し、「テンプル騎士団」の資産、財産を継承させます。1318年、「キリスト騎士団」は創設されました。

 

大航海時代

 

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 キリスト騎士修道会大十字章 18世紀後半 銀 ガーネット 水晶

リスボン国立美術館蔵;ポルトガル 栄光の500年展(この展示を見て、リスボンに出かけました。)

 

711年以来ポルトガルの国土は、イスラム教徒に征服されていました。

1415年、レコンキスタ(キリスト教徒の国土回復運動)を終えたポルトガル王ジョアン1世は、ジブラルタル海峡を渡り北アフリカのセウタを攻略します。この戦いで武勲を立てたエンリケ王子(後にエンリケ航海王子と呼ばれる。)は騎士に選別され、1417年には キリスト騎士団の団長の座につきます。エンリケ航海王子は キリスト騎士団の財力を用い、イスラム教徒が独占していた金、香料を目指し、アフリカ西海岸を目指します。航海者を支援し、何度も探検隊を派遣したエンリケ航海王子のキャラベル船は、アフリカ南部にまで到達し、ポルトガル大航海時代の基礎を築きます。

1484年に団長の座に就いたのは、1492年にポルトガル王になったマヌエル1世でした。

マヌエル1世は、同じキリスト騎士団のヴァスコ・ダ・ガマに命じ、喜望峰を経てインドまでの回路を開きます。ヴァスコ・ダ・ガマは自らの紋章に、キリスト騎士団十字を入れています。

 

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 キリスト騎士団十字  wikipedia

 

さらにマヌエル1世は 1,500年に、ポルトガルの軍人であり、キリスト騎士団の探検航海士、ペドロ・アルヴァレス・カブラルに命じ、大西洋を西に、香辛料を目指し、インドに向かわせます。13隻の大船団は期せずして南アメリカ大陸(ブラジル)に至り、この地の領有を宣言します。その後さらに西に向かいインドを経て、世界一周の航路を開くことになります。ブラジルの領有は後に、写真に見られるスタイルの「キリスト騎士修道会十字章」の誕生を、宝石の供給で支えます。そして今まで観てきたように「キリスト騎士修道会十字」はポルトガル海軍と結びついています。

 

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 NRPサグレス、ポルトガル海軍大型練習帆船(エンリケ航海王子がザグレス岬に航海学校を設立したことに由来する)、エンリケ航海王子ゆかりの「キリスト騎士団十字紋章」が見える。

 

そして、このスタイルの「キリスト騎士団章」の誕生に関して言えば、一番重要な役割を果たしたのは「ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルバァーリョ」だと考えます。彼は国王ジョゼ1世の信認を得て、ポルトガル王国総務大臣(1,750~1,777年)となり、財政改革や工業化のため、独裁的な権力をふるいます。カルバァーリョに独裁的な権力を与えた国王に不満を持った貴族は、ジョゼ1世暗殺未遂事件(1,758年)を起こします。カルバァーリョは関わった貴族を処刑し、国内やブラジルに多くの利権や領地を持つ「イエスズ会」を、関りがあるとして、ポルトガルから追放します。

ブラジルの領有をめぐってはオランダ、フランス、スペインと次々対立してきましたが、カルバァーリョが王国総務大臣に就任して間もなく、1,750年10月にスペインと結んだマドリード条約によって、現在のブラジル全土を領有することになります。カルバァーリョは国王支持者にブラジルの運営を任せ、商業政策を推し進めます。

 

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キリスト騎士修道会十字章  Museu Nacional de Arte Antiga

 

ここで注目したいのは、私のコレクションもリスボンのMuseu Nacional de Arte Antiga 」にある「キリスト騎士団章」もすべて、宝石の色から見るとブラジル南部リオグラデドスル州のアメジストと水晶が使われていることです。そしてこれらが作られたのは、

カルバァーリョの王国総務大臣在任期間と重なっていることです。(石留の技法からも証明できます。)

つまり、キリスト騎士団の団員がブラジルの運営に多く関わっていたか、又はブラジルの経済活動でブルジャージとなった商人が、名誉のためキリスト騎士団に入会したことを物語っています。

次はそのジュエリーの技法についてみていきます。

 

 

 

 

 

 

 

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